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靴紐を結んでソクラテスに出会う

2019年9月4日

靴紐を結ぶ時、それが反射的な行為であるか、脳内の知識の回想であるか考えたことはありませんか。それは事前のシミュレーションにより形成された知識ですか、それとも実際に体験して得た知識ですか。

今日は、2千年以上前、古代西洋の知識の殿堂であるアテネとソクラテスを取り上げて靴紐を結ぶ「方法を知ること」(know-how)と「内容を知ること」(know-what)について論じましょう。また、この機に自分が主知 (intellectualism)志向か体験(experientialism)志向かについても考えてみませんか。

主知主義 vs. 反知性主義

プラトンの《メノン》(Meno)の中で、メノンがソクラテスの前に来て、「徳」(virtue、原文:areté)はどこから生まれたのか、他者の教えによるものか、それとも訓練によって得るものか、或いはそれらとは関係なく生まれつき持っているものか、教えを請いました(70a)。ソクラテスはメノンの問いに答えるのではなく、誘導尋問、反証の方法で、討論の方向を「徳とは何か」に転換しました(71a-d)。

メノンは最初に「徳」の定義を試み、ソクラテスに自分が討論の理由を知っており、さらにそのいわれを探求できることを証明しました。しかし、しばらく意見を述べた後、メノンはためらい始め、ソクラテスはとっくに知っているのに、わざと自分に恥をかかせるために「徳とは何か」と尋ねたのだろうと非難しました (80a-b)。

そこでメノンは強がってソクラテスに尋ねました。「貴方が一つの事について何も知らないとしたら、どのように探究しますか?それが貴方の前に現れたとしても、それが何かわからないのなら、それがそれまで知らなかった物であることをどうやって見抜くのですか。」(80d)。

こうして認識論(Epistemology)の研究が始まり、2千年以上続けられました。古代から現代まで、国内外の哲学者により、人の世界における知識はどのように構成されるのか、純粋理性 (pure reasoning)の発展によるものか、外界に対する体験(experience)によるものか、活発な論争が展開されています。

皆様はメノンの観点に共感を覚えますか。言語による論証により事物の本質を探索することができないのは、それを識別したことがないからだということです。では、貴方は反知性主義者(anti-intellectualist)であり、人の事実(reality)に対する理解は単に知識と理性の発展のみにより実現されることはないと信じているかもしれません。さらに、本当にある事柄の内容を知り尽くすには、実際に体験しなければならないと考えるなら、貴方は生粋の体験主義者(experientialist)です。

もしかしたら、貴方はソクラテスの理念に同感し、事実(reality)をはっきりと理解するには、知識と理性に回帰する必要があり、その他実際の経験はこの事実を構成した幻影や過程にすぎないと信じるかもしれません。そうであれば、貴方は主知主義者(intellectualist)です。

これで哲学者が言う「理性派」と「体験派」が何であるかわかりました。それは2つの異なる角度、方法により知識を探求したり、事実を語ったりすることです。では、彼らが言う「方法を知ること」と「内容を知ること」の違いは何でしょうか。哲学的な問題を一度にたくさん考えると頭が疲れます。さあ、クライマックスです。次回もこのおもしろい哲学思弁を続けましょう。

参考文献

  • Plato. Meno. Translated by Cathal Woods, Creative Commons, 2011.